企業におけるワーク・ライフ・バランスの推進
〜リーダーと経営理念〜
武蔵大学 教授
江上 節子氏
2012年4月25日に行われた「日本生産性本部会員月例研究会」での、江上節子氏の講演内容をご紹介します。
ワークーライフーバランス(以下WLB)上、最も重要なことは、経営者やリーダーの考え方であることが、 内閣府の調査結果でも出ております。今日は、私が持っている問題意識、リーダーと経営理念と組織文化の観点からお話しします。
国としての、科学的な政策アプローチを
WLBという言葉の響きには、「ゆとり」というイメージが強く、日本の場合は景気や、企業環境が厳しくなると、なかなか進みにくくなります。しかし、経済生産性で測定する仕事の仕組みと、自然存在としての人間の暮らす仕組みとの葛藤が、実は出生率の低下、メンタル問題、家族のあり方、育児問題、健康など、社会現象化している連環的な構造問題だと認識されるようになってきました。WLBの政策を、政府主導型で推進した英国も、科学的な認識に立って進めて来たのです。日本では、仕事と家庭生活の調和について、仕事の精神的な負担が大きく家庭・個人生活が充実できないと考える人が3割を超え、時間的な負担で同様に考える人が4割を超えています。また、精神的な負担につながる悩みを国民生活に関する世論調査(内閣府)からみると、勤務先での仕事や人間関係に悩みを抱える若年・中年層が増加しています。
「持続的な成長の維持と人間生活の豊かさを両立させるために、WLBという政策が有効である」。この政策的なアプローチを確実に推進するには、何が重要なのでしょうか。一体、どのようなことがWLBの進展の障壁とし て影響しているのかご紹介します。
8割の企業がリーダーシップの大切さを指摘
「WLBが実現された社会」に近づくためには、企業による取り組みとして、どのようなことが必要かという調査(内閣府・2008)では、組織の問題として、管理職の意識改革の必要性、および社長や取締役がリーダーシップを発揮して推進することが、いずれも8割を超えています。リーダーシップという課題は、男女雇用機会均等法、育児・介護休業法の施行以降も、長らく指摘され続けてきました。法律の施行、企業では、運用の規定を整備しています。しかし、現実には制度利用が進んでいません。運用上の障壁は何なのでしょうか。組織内には長く続けてきた習慣や、慣行がたくさんあります。それらをひとつひとつ変えるのは、大きなエネルギーを必要とします。また、暗黙の理解や合意形成、非公式の承認、同意、協調など、組織には目に見えない文化があります。人を動かす文化という影響力は、私達が考える以上に根強く、組織の文化は、時として制度を超えるほどの大きな権力として作用するのです。
企業の暗黙知が組織文化
リーダーの意思決定や、企業の中の個人の選択行動について、なぜ、そのように考えるのか、なぜ、そのように行動するのかを考えると、組織における共通の概念、見えないルール、暗黙知が存在し、それは一種の文化だからです。組織文化とリーダーシップについての関係を解き明かすのに、エドガー・シャインという米国の組織心理学者によれば「共有された仮定」というものがあります。共有された仮定とは、組織に深く根ざしている共通の基準、秩 序、価値観のようなものです。シャインは、文化は3つのレベルで定義されると言っています。
ひとつ目のレベルは、「人工物」です。組織の内部にいる人は、気がつかないことが多い、物理的な空間や環境、言語です。オフィスの空間、職場のデスクの配置なども文化を現しています。組織には、特有の言葉や用語、話し方、表現の方法などが使われます。職場に存在する人が、同じような学歴、出身、性別、年代、家族構成、経済報酬、技術集団で構成され、ひとつのオフィス空間で働いていたら、そこでは、自分たち以外の立場の人間が仕事や個人生活、家族問題で抱えている悩みなどには、想像力が及ばなくなってしまうかもしれません。理解をする必要がないわけですから、内輪だけで通じる言葉で会話し、暗黙知の習慣での行動が多いという実態の見直しを調査してみることも大事でしょう。
リーダーは、組織の信念をつくる、価値をつくる
2つ目のレベルは、その組織における「価値」です。何か事件が発生した時に、共通の価値基準に基づき、理解して、行動する。例えばある企業で、創業者が「従業員の暮らしを守ることが企業の原点」という理念を持ち、今日でも、その理念を企業の重要な思想として位置付けていれば、事業の縮小をした際でも解雇を避け、給与水準の調整で雇用を維持するという選択をするかもしれません。「女性の力を活かす」という哲学を持っていれば、継続して女性の新規雇用を行い、子育て両立支援の職場環境整備に注力するかもしれません。経営者やリーダーの価値は、一過性ではない、宣言・表明を通じて持続的に企業内部に伝え、行動することにより、組織内部の認知、理解、受容、学習、浸透、定着というプロセスを通して、組織の価値であり信念になっていきます。
こうしたことが、組織の「価値」として明示的になり、文化となっていくのでしょう。もちろん、事はそう単純には進まないでしょう。現実の事業や、現場の運営と適合しない、あるいは相反する問題が生じてしまう例もあるでしょう。また、成果を生まず、かえって逆効果になる事態もあるかもしれません。しかし、長期的な目標や企業の存在理由として、リーダーが政策決定したことを続けることにより、目先の利害に捉われず、メンバーも、試行錯誤の中で自信をもって挑戦できます。
3つ目のレベルは「基本的仮定」です。幾度も同じことを繰り返すことで、企業の中で当然の基本的な価値になり、理解が浸透、行動パターンとして形成されていきます。
文化の革新がWLB
このように、文化が、企業、組織でいかに強い影響力を持ち、物事を日常的に動かしていくかということを改めて認識することが大切です。WLBの推進は正に、文化の見直し・革新につながる活動と言えるでしょう。米国のNPOカタリストは、働く女性に対する能力開発支援と企業における女性の才能を活用するための様々な支援を行う団体で、企業における女性の実態調査や、企業に対する表彰等、多岐にわたる活動を展開しています。毎年、「カタリスト賞」という表彰制度を実施し、女性に開かれた雇用モデルを構築・実践している企業の事例からどのようなステップと仕組みを開発したのかを精緻に調べ、ベンチマークとして情報発信を行っています。そこには、新たな企業文化を創りだすことが共通するベスト・プラクティスとして認識されています。
「企業の社是、信念、価値観の体系、しきたり、方法、哲学といったものが、企業文化を創り上げている」(カタリスト・1998)。人材の多様化、文化や経験の異なる従業員同士がともに働くという企業文化を創るためには、何が必要でしょうか。例えば、ダラスに本社を置くテキサス・インスツルメンツは、「協力こそがわが社のビジネスのやり方である」という企業哲学を浸透させ、女性の雇用モデルを開き、人材の多様化を推進しました。企業文化、組織文化を変えること、新たに創り出すこと、発展させること。WLBは人間を中心にした新たな文脈を企業活動に織り込むことです。
では、誰が革新の担い手になれるのかと言えば、それは、組織全体の従業員が推進者であることは、言うまでもありません。しかし、文化を新たに創り出し、管理する役割はリーダーです。文化とは、組織を通じ、事業を通じて、どのような価値を創り出していくかという経営理念そのものです。経営理念が企業の存在意義を明らかにし、目に見える形になって初めて、全体で価値を共有できるでしょう。
企業の価値と経営理念
私の研究室でWEBから、東証一部上場約1700社の経営理念の調査を行いました。経営理念に掲げている価値には14程の種類があり、多くの企業は、複数を掲げています。価値を階層化して分析してみると傾向がわかります。第1位は「顧客第一主義の価値」で最も多く、2位は「技術・研究開発・品位重視」、3位は「社会貢献」でした。
名称を見ると、「経営理念」と「企業理念」は同様の意味で使われています。しかし「経営理念」では「取引先尊重」と「地域貢献」の2つを重要としている一方、「企業理念」では創業者精神を志向する傾向が強いという違いがあるようです。
創業者精神の根強さ
創業年で分析すると、長く継続する企業は、今でも創業者の哲学が色濃く影響しています。今日においても、創業者の精神を経営理念として掲げる企業が予想以上に存在しています。この事実は、重要な点です。創業者がいかなる目的で起業したかを理解し、目的を共有し続けることで、後に続く後継者は、社会における存在意義を共通の価値観として、従業員へのマネジメントの方針としています。創業者の信念は、卓越した力を有しています。創業者精神には、顧客重視と同時に従業員重視も多くあります。経営理念の考案者は創業者が多く、まず企業の存在理由を考え抜いて、言葉を編み出してきたことがわかります。経済成長、社会変動、技術進化の背景など、様々な時代を潜り抜け、創業当時からの精神を長く守り、普遍的な価値として据え置いている企業が目立つことに、そこに人間主義が根底に貫かれていることが伺われます。逆に言えば、優れた創業精神を持っていた企業が、生存し続けてきたとも言えます。
パナソニックに社名は変わりましたが、創業者・松下幸之助は、経営を進める留意点として、「目に見える要因と、目に見えない要因をともに考えなければならない。まず、経営者自身が考えに考え抜いて、心の底からこれだと思えるもの、さらに従業員も株主も納得できるもの、広く世間の人々が賛成してくれるもの、天地自然の理にかなっているものでなければならない」と述べています。エドガー・シャインが組織文化とは何か今日に定義していることを、松下幸之助は、昔に、「目に見える要因と、目に見えない要因をともに考えなければならない」と喝破しています。企業理念、経営理念で重視すべき価値は何か、リーダーはその追求を求められ、組織文化を創り、文化を管理していくことが責務なのでしょう。WLBが形式だけに留まらないようにする上でも、経営理念を掘り下げ、今再び、自社の組織文化の点検に向き合うことを考えていただきたいと思います。
【プロフィール】
江上 節子
武蔵大学 教授
ワーク・ライフ・バランス推進会推進委員/ワーク・ライフ・バランス経営委員会座長/著書に「ワーク・ライフ・バランスと経営」生産性労働情報センター(2012)など